10)博士はトンボ取りの名人だった
大正5年10月7日(1916)小石川植物園という所で、田中館博士の在職25年記念祝賀会が開かれた。
この時同僚総代として藤沢教授が暴露したことは、忘れんぼうで有名な博士のエピソードでは
なかった。
「館先生の失敗を披露していては二日も三日もかかってしまう。
実は若いときの館先生はトンボ取りの名人だった」と祝辞をのべた。
ところがこのあととんでもないハプニングが起こった。
全ての祝辞が終わったあとで、そのお礼をのべた田中館博士は「諸君!」と一言。
感激のためかしばしの沈黙があった。そして博士が次に発した言葉は、
「私はこれを25年コンマ、ゼロの記念会として謹んでお受けいたします。」
という訳の分からないものだった。列席者達は一様に首を傾げた。
実はこの日の朝、愛橘博士は辞表を提出していたのだ。
「昔は人も無く私のような者でも学者のはしくれで居られたが、
今は沢山立派な人がいる。今日を最後に教授を辞めます」と言ったのだから、大騒ぎ。ついには列席者一同が多数決で
博士の辞意を撤回させようとしたという。
結局田中館博士の意志は変わらず、いくつかの条件付きで大学を辞職する。このとき博士は60歳。
今では信じがたいことだが、当時は定年退職というシステムが無かった。東大ではこの田中館博士の
辞職が呼び水となって、定年制が設けられたという。